« やよい | トップページ | 平福 »

尾鷲

 年末の旅というものが好きだ。師走の慌ただしさに包まれていた街が、少しずつ静けさに包まれ始め、年始の準備を始める。そんな雰囲気の中を、ガイドブックに大きく取り上げられない、或いはまったく取り上げられないような町を旅するのが好きだ。

 ある年、年末に紀伊半島二泊三日の旅をした。東海道本線の夜行に乗って早朝に名古屋に着き、三重県の町をいくつか散歩して、夕方「多気」という駅にやってきた。「たき」と読むその駅は、紀伊半島へ向かう紀勢本線(きせいほんせん)と伊勢志摩方面の参宮線との乗り換え駅だが、駅の裏は草むした空き地、駅前は小さなロータリーとポツポツと店が並ぶ細い駅前通りがあるだけの少し淋しい駅であった。
 私は、駅前の雑貨屋で酒とお菓子を買って、紀勢本線の鈍行に乗り込んだ。クリーム色と朱色に塗られた古びたディーゼルカーだった。
 向かい合わせの四人掛けシートが並ぶ車内はガラガラで、私は靴を脱いで前の座席に足を置いて車窓を眺めた。途中で部活の帰りらしい生徒と引率の先生のグループが乗り込んできて、少し賑やかになる。窓外は杉の木々が立派な山間に入っていた。

 少し日が暮れ始めてきた頃、尾鷲(おわせ)という駅に着いた。今日の宿泊予定地だ。日本有数の雨の多い町で、港町である。バスが三台くらい停まったら窮屈になりそうな駅前から伸びる通りを歩き、私は港に向かった。日は沈み始め、空が紺色になったのを見届けて港を離れた。

 小さな町であるのか、あまり飲食店がない。とりあえず駅前にあった二階建ての真新しい旅館にチェックインして、夜の尾鷲を散歩する。
 予め調べておいた銭湯に行ってみた。線路脇にあるその銭湯は、住宅街の中にあるため、付近は真っ暗である。湯上がりにいい気分で駅の方角へ歩いていると、寿司屋を思わせる木造りの玄関の居酒屋があったので入る。

 店の中は木のカウンターとテーブルが並び、内装も寿司屋風だった。漁師だと思われる日に焼けた体格の良い男性達が、おそらく忘年会と思われる飲み会をしていて騒々しい。カウンターの中には女将さんが一人で立っていた。
 私は、カウンターの端のテレビの前に座った。女将さんは八時半くらいまで宴会なのでうるさくてすいませんと言ってお通しを出してきた。
 私も飲みながら、する事も特になく、テレビから流れるドラマを眺める。女将さんが気を遣ってドラマの話を振ってくるが、顔をテレビに向けているだけで内容は頭に入っていない私とでは会話は弾まない。

 時間になって宴会は終わり、漁師さん達は二次会に向けて出て行った。店は私と女将さんだけになった。
 四十代前半と思われる女将さんは、田舎の小さな店に置いておくには場違いなような品のある美人であった。二人っきりになったので会話が始まる。私は神奈川県から来た事などを話し、尾鷲は雨の多い町なんですよね?などと世間話をした。
 女将さんは、「実は私東京の大学を出ているんですよ」と遠い目で語り始めた。「東京の田町。田町知ってます?そこにある大学なんですけどね…」と淡々と言う。田町にある大学というと、K大学ではないか?しかし、もしそうだとしたら、何故K大学を出た人が三重県の田舎の小さな居酒屋を一人で切り盛りしているのか謎である。色々聞いてみたくなったし、聞けば面白い話が聞けそうでもある。
 しかし、聞けなかった。どこか寂しそうに見えるその表情を見ていると、女将さんがここに辿り着くまでのストーリーは興味本位だけでは聞けなかったのだ。

 どんなに良い大学を出ても、何らかの事情で思い描いたような人生を送れない事もある。私も流れは女将さんと違うものの、思い描いた人生を送っていない人間として、女将さんの過去に深く入り込むのは止めて、世間話に切り替えた。

 店を出ると、さすが紀伊半島は冬でもそれほど寒くない。女将さんの今も実は他人が心配するほどではなく、実は幸せなのかもしれないと思った。

|

« やよい | トップページ | 平福 »

」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1081873/32783530

この記事へのトラックバック一覧です: 尾鷲:

« やよい | トップページ | 平福 »